深水正策について

1900年生まれ。長崎県壱岐出身。
長野県木曽福島の母の郷里で生まれ、父・深水貞吉の出身地の長崎県壱岐島で育つ。
上智大学進学で上京したが中退し貨物船で渡米、コロンビア大学とハーバード大学でエッチング(銅版画)を学び、絵描きとしてアメリカで10年を過ごす。ボストン美術館でも働く。
その後ヨーロッパに渡り6年間を過ごした。帰国後、友人らと太平洋画会(後の大平洋美術会)に版画部を立ち上げ属する。
1932年4月 文房堂で個展を開催し、エッチングを中心に約50点の版画を発表する。また6月に同じく文房堂で、ワルワーラ・ブブノワ、中村義男、河辺拇村の4人で「素描と版画展」を開催、ギリシャ神話を主題とするエッチング20点などを出品した。黒田呵雪が「氏の感情はこまやかに洗練され審美化されたものだ。落ちついた代赭の地から浮いて来る繊巧な線の律動が夢のように音楽を奏でゝ居る」(「素描と版画」『みづゑ』330)と評す。1935年太平洋画会第31回展に、『古代絵模様』と『リズム』2点のエッチング、その他『神話』『幻影』『巴里ノートルダム』と題する版画を出品。同年の構造社第9回展に『水の幻想(歓び)』『水の幻想(哀み)』を出品。
1954年11月小野忠重や恩地孝四郎らとともに「版画懇話会」を結成。1956年1月版画懇話会主催の第1回現代版画展を銀座・渡邊木版画店で開催、以降も継続して10年余、毎月一回の版画懇話会を版画家の上野誠と催して版画研究に尽力した。
太平洋美術会でも版画を指導。主要作品『ピノチオ』(ドライポイント)、『真夏の夜の夢』(エッチング)、『死の灰』『黒い雨』(木版)。東京藝術大学大学美術館に『エチュード』(エッチング)が所蔵されており、現在でも『芸大コレクション展 大正昭和前期の美術』が開催される際に展示されている。
文学活動においては1938年に新泉社より伝記小説集第2輯『小さい花束』を出版するほか、『チャレストンの跛人』(ド・ボーズ・ヘイワード著 汎人社 1930年)など翻訳本がある。また、正策の父・貞吉が民俗学者・柳田国男と共に成城学園をはじめ戦後の街作りや文化事業に取り組んでいたことから、正策も柳田国男の弟子として学び日本民族学会の『民間伝承』に巻頭論文を寄稿するなど民俗学研究を行う。柳田国男が書斎とした洋館を改装したギャラリー『緑蔭小舎』においても個展やグループ展を開催する。1938年9月に吉村貞司、深水正策、那須辰造の三氏が中心になり少女詩人たちが集う雑誌『つどひ』を創刊。詩人の石垣りん子(石垣りん)や逸見貞子(日塔貞子)が参加した。
戦後は北多摩郡狛江町幼稚園、代々木東京高等服飾女学院、成城学園に勤務し、児童教育の分野で活躍した。親友には版画家の中村義男、彫刻家の荻島安二がいた。1936年に浜崎八重子と結婚。10名の子供の父親でもあった。子供の恩人・友人に絵を贈ることを好み、1972年にこの世を去る間際まで絵を描き続けた。
【文献】『日本美術年鑑』昭和48年版(東京国立文化財研究所 1974)